ととも番外編 「墓守」


 夏の日差しは明瞭な木陰をつくり、地面には陽炎が揺らめいている。柳がそよぐ風もない暑い午後、里の墓地にひとりの男の姿があった。立ちつくすその男は眼前の墓石をみつめている。喪失からくるであろう老いをのぞけば、男はまだ老け込むような歳ではなかった。五十を超えたところであろうか、鍛えられた体躯はこの暑さの中で悲鳴をあげるでもなく、ただ、立つことを受け入れているようにみえる。蓄えられたひげがずいぶんと白くなっている。
そのまなざしは墓石の下に眠る人に送られているのか、墓石そのものには焦点が合っていない。ときおり眉が動くことから、なにか会話をしているようでもあった。声はださない。聞こえるのは折り重なる蝉の声。

 ・・・その様子を見るのはこれで三度目となった。さすがに気になるのは人情というものだろう。白銀の髪を束ねた少女は男の背にむかってやさしく声をかける。男は振り向かない。
 「奥様ですか?」
質問に対して男は背を向けたまま、しばらくの沈黙の後に「迎えか?」と問う。
 「いいえ」
そうか、と返した男の肩がさがる。邪魔をしないでくれ、そう言う男にそれほど興味があるわけでも、心配する義理もない少女はその場をさった。男は目をつむり、少女によってとぎれた泉下との会話を蘇らそうとするのであった。
 男はそれが無駄な取り組みであることはわかっているつもりではある。その目に見えないやりとりはその胸の中で完結しているのであって、それが亡くした妻とつながっているわけではない。ただ、その喪失をこの擬似的な会話で埋めることは、それなりに意味のあるような気がしてならない。__自己満足、たんなる陶酔__と嫌悪することもあるが、ただ、男の中の妻は、それを否定するのであった。周りの者はそんな男の様子を見て「後をとれ」というのであるが、男はいまさら新しい生活をする気にもなれず、このまま朽ちていけばいいと感じていた。また、おしどり夫婦だったことを知っている者達は、それを知る分強く言うこともできず、夏の暑さに耐えきれず倒れるのならばそれはそれで仕方があるまい、となかば諦めている様子であった。かくして、男はその夏の大半を墓前で過ごしている。

 少女は、男が振り向きもしないことに多少、驚いていた。そこまで覚悟が出来ている人間はそうそういるものではない。これまでは毎日様子を見ている訳ではなかったが、次の日ものぞいてみることにした。少し楽しみにしている自分を発見して、初老の男にちょっかいを出すとは変わったことだと少し笑う。・・・次の日はいつにまして暑かったが、多少風があるのが救いだった。

男は、いた。

 少女は昨日、振り向きもしなかった男に、どう声をかけて良いか多少迷った。「もっとも、声をかける必要もないんだけど」とふと思う。おどかしてみようか、少女はすこしいじわるな発明をしたが、男は墓前に向き合っているのである。それを思うと躊躇われた。
そんな思案をしていると、男の後ろ姿が揺れている。陽炎か、とも思ったが、最後、大きく前後に揺れたかと重うと、男はその場に倒れた。



 男は大きな樫の木の木陰で目を覚ました。多少、記憶が混乱している。たしかに墓に来たことは覚えている。今日も、若かりし日の妻、円熟しやわらかな妻、・・・そして、病に伏せ弱く笑う妻、いつものようにその姿をありありと思い出していたはず。「どうすればよい」の問いには答えてくれない妻とのやりとりの最中に、ふと、めまいがしたはず。が、ここはどこだろう。
「目が覚めたかい」
 そう声をかけられて、あぁ、おれは倒れたのか、と合点がいく。周りをしっかりと見てみると、何のことはない、墓の前の樫の木の下だった。声の主をみると白銀の少女__昨日の声の主だと思われる__がいた。
「迷惑をかけたな」
 あのまま助けられなかったら妻のもとに行けたのかもしれないと思うと、邪魔されたようにも感じるが、かといって自分に死ぬ覚悟があったかは実際の所怪しい。__事実、暑さぐらいで倒れるとは男は思っていなかったのである。
 少女は少し距離をとっていた。昨日のとりつく島のない様子から、男は「助けた」ことに逆上してくるのではないかと思っていた。が、案外普通の声が帰ってきたことに少し安心するのであった。
「気をつけないといけないよ」
 彼女は竹の水筒をとりだし、男に渡した。男はそれを多少とまどいながらもおとなしく受け取る。男は目の前の少女が竹藪に住むという八百姫ではないかと考えている。里のはずれ、西の谷へと続く途中にある竹藪に迷い込んでしまった者達がたまに世話になるという、歳をとらない少女。人間に危害を加えるような性質のものではないという噂を信じることにした。現に彼女は己を助けてくれているのである。親切をむげにすることは出来なかった。__水は、冷たかった。
 彼女は男が目を覚ましたので、ここをもう去るべきなのか、あと少し様子を見るべきなのか、迷っていた。男も、自分は幹に寄りかかってだらしなく座っているくせに、少女がのぞき込むようにかがんでいるのが申し訳なかった。
「まぁ、座っておくれ」
 男はとりあえず気にしていることを口走ったために、彼女をここに引き留めてしまった。男とて別段、彼女にしゃべることはない。礼を述べて「もう大丈夫だ」と言えば、彼女はそれで去るなら去るであろうし、何か聞きたいことでもあれば__ないだろうが__なにか口を開いただろう。男は引き留めてしまった手前、何かしゃべったほうがいいような気がして、ぽつり、ぽつり、自分と妻のことをしゃべった。
 彼女は、男からすこし角度を置いて、同じように木にもたれかかって、彼の話を聞いていた。男は、若い頃はずいぶんともてはやされたらしい。確かに体格も良いし、声も通る。市に行けば店先の八重歯共が袖を引き合うのも分からないでもなかった。・・・ただ、その恵まれた事を素直に受け取ることが出来ず__詳しくは話さなかったが__女性不信になるようなこともあったようだ。そして、やっと妻に巡り会えたのだという。女性が苦手なのに、私にそんなことをしゃべるのは私を女と見ていないのか、はたまた、「人外」とみているのか・・・彼女には分かりかねていた。
 男も、最初は場を持たせるためにぽつりぽつりとしゃべっていたが、途中から己の胸にためていた物をはき出すことが自分が求めていたことだと、改めて思うのであった。彼女はおそらく俺の話を里・谷で言いふらすようなことはすまい。その安心感が彼の口をわらせた。周りの人間には大きな穴のあいた人間のように思われているが、その実、妻を亡くしたことで男は自分の思いや考えや多少なりの鬱憤をはき出すことが出来ずに__妻は黙って、男の下らない話を聞いてくれたのだった__大きな塊をその胸にため込んでいた。男は途中から、隣にいるのを白銀の少女であることを忘れそうになっていた。

 その胸にためていた、本来ならば妻としていた詮無い会話をはき出した男に、たしかな、深く大きな喪失が広がりつつあった。男はふと少女を見やる。少女の飾り気のない柔らかな唇は穏やかに笑っている。その目は夏の日差しをややまぶしそうにしながら、遠くの山を見つめていた。うなじに汗の玉がうき、後れ毛が張り付いている・・・。

風が、男に、彼女のにおいを届けた

 男は、その喪失を彼女で埋めようと感じた。胸がつかえる。初老のその大きな体躯をもった男は「すまない」そう最後に言った。抱きすくめられた彼女は、おどろきはしたが、その鬱憤をはき出し、その後の空虚を満たしたい衝動が押さえきれない男を愛おしく感じた。人間社会ではもはや埋めようのないその孤独を受け入れてやりたい、そう思い、白い腕を男の首に回すと、男は最後の何かが切れたようだった。



 男は妻の眼前で少女と通じたことに気づいた。彼の喪失は罪悪感で埋められた。彼は、彼女が受け入れたことよりも、自らが犯したことに重きを置いたのだった。男はまた、「すまない」そう一言いうと、罪悪感を感じていることを悟ったのか、「もし、もう谷に帰ることが出来ないと思うのならば、迷いの竹林においで」彼女はそう、優しいまなざしで心配して言うのであった。男は「あぁ、考える・・・そのほうがいいのかもしれんな」とうつろに答えた。
 どうしようもない罪悪感でその心を埋めてしまったのは、また彼女を抱きたいという衝動を抑える、そのためであることに男は気づかない。彼は素直に生きるべきだった。彼はすでに、あれだけありありと思い浮かべることができた妻の輪郭がぼやけていた。それは彼の人生に一つの区切りがついただけにすぎない。だが、彼の理性__というよりも行動規範__はそれを許さないのであった。その彼の歪んだ正義は少女を抱くという行為を振り子に大きな弾みをつけた。


男はその夜、妻の位牌の前で果てた。谷の者達は妻が連れて行ったと噂した。


 ある日の午後、彼の入った棺桶が妻の隣に埋められるのを彼女は遠くから認めた。自ら妻を追った男に対する世間は冷たい、というよりも不吉なこととして忌んだ。__彼女は、すでに男の顔をしっかりと思い出すことが出来ない。それは夏の思い出の一つとなっていた。


蝉がないている。

1 件のコメント:

  1. 半ば彼岸に足を踏み込んだ男と、恐らくは不老不死の少女の夏の日射しの下での邂逅。男にとっては死すべき罪悪、少女にとっては只の夏の記憶。生きる時間の尺度に基づくものなのでしょうか、対比的な登場人物の邂逅が、動画と変わらぬ綺麗な情景・季節の描写と相まって、とても惹き付けられるものを感じました。
    文章で表された李花尺さんの世界観、というのもまた興味が有るところで、願わくはまた、執筆なさらんことを…。
    動画も小説も、応援しております。

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