2012/11/27

報告やら予定やらなんやらかんやら

久しぶりに「李花尺について」のページを更新しました。・・・といっても内容がさほど増えたわけではないですが。

主な変更点は、大百科への記事へのリンクと、「巡るは季節」のマイリストへのリンクを足したところです。うん、普通ですね。

あと、ブログでのコメントで、拙作「色の名前」が再生できない不具合があるとの報告を頂きました。これは本格的にリメイク(というよりは再構築)をするエネルギーが溜まってきましたね。さて、どうしたものか。

今後の予定としては、東方百人一首劇というシリーズを始めるつもりだったのですが、どちらを先にするか(新シリーズか、「色」再構築シリーズか)、はかなり迷いどころです。あえて、並行的に進めてみるというのも手ですが。


ということで、ちょっと予定は定かではありませんが、12月からはシリーズ物を始めようと思います。

2012/11/25

姫海棠はたての気になる写真【後書き】


さて、中途半端な物語となりました。この物語を造るきっかけになったのは、文の取材の第6話が権利者削除をくらいまして、それがはたて登場回だったためです。で、せっかくだからはたてを中心にした物語を作りました。

文の取材がだいたい初夏から夏にかけての話で、その番外編としてその秋の話があります。今回の話はその次の年ぐらいの夏の話だと思って貰えば結構かな・・・と思います。動画の最後にも一文書きましたように、何故か天狗の話はどんどん繋がって、発散して、いっこうにまとまる気配がありません。困ったものです・・・。

動画の最後、はたては何を思いついたのか。ちょっとだけ触れておこうと思います。

はたては最近になって念写で引っかかってくる綺麗な花の写真のほとんどは文によるものだと考えた。・・・その一部は文の新聞にコラムとして掲載されているが、そのほとんどは眠っているようだ(・・・実はアルバムを作って幽香に渡して居ますし、それは幽香がレティに見せに行っていますね;拙作「冬に咲く夏の思い出」参照)。ということは、文はどういうつもりか知らないが、花には興味を持っているくせに、いまいち素直になれていないようだ。つまり、文がすでに使った写真をのぞいて、それを中心に幻想郷の四季とでも題して新聞を作っても、文は面と向かって私に文句を言ってこないだろう。文はなんとも微妙に恥ずかしい気分になるに違いない。これは面白い。・・・それにせっかくの写真を眠らせておくのももったいない。

というようなことです。素直じゃない悪い子ですね。
もちろん、これには当然、花を紹介した幽香もかんでくるでしょうし、あるいは念写に文の写真じゃないものが混じってきて、じゃ、これはなんだ・・・みたいな話に持って行くのも面白いでしょうし・・・と、物語がどんどん繋がっていってしまったのが現状です。・・・が、動画にするのも面倒なのです。

文の取材もそうですが、延々と続いていく日常が湧いてくるのは、おそらく、天狗が人間くさいためではないかなぁ、と思っています。私は多くの妖怪や神様を「美しいモノ」「完全性の高いモノ」として捉えています。それそのもので完結しているので、必ずしも他者との関わりを必要とせず、感情の起伏も少ない(だからこそ、小さな事が大切なのかもしれませんし、関わりそのものが大きな物語になるのかもしれません)。そういった存在とは違って、社会性のある天狗は他者との関わりをもつが故に、人間くさく、次から次へと関係性を構築していくのがごく自然なこととして起こるのだと思います。

椛とニトリの立ち位置ですが、なんというか、この2人もずるいですよね。文とはたての関係をにやにやしながら2人で見ているという。でも一番面白いかもしれない。ニトリは機械いじりが好きですし、椛は千里眼をつかって山を守る(あんまり作品として描いたこと無いですが)という自己がありますから、2人に対して嫉妬をする必要もないので、きっと思う存分にやにや出来るのだと思います、悪友ですね。


2012/10/20

リメイク版「秋の訪れ」【後書き】

 2周年記念として第一作目である、「秋の訪れ」をリメイクしてみました。本当は2周年の記念日である10月10日に投稿したかったのですが、無理でした。

 さて、如何だったでしょうか。私はたまに自分の過去の作品をのんびり眺めたりするのですが(ナルシストといえばそうですが、やっぱり自分が好きなように描いたので当然、好きなわけです)、初期の作品群は結構「ネタ」を使っていますね。これはたしかある程度の「ウケ」をねらっていたと思うのですが、今見ると別に無くてもいいかな、と思う反面、これはこれで軽い感じでよいガス抜きになっているなとも思います。ここのところ、まったくもって「ギャグ味」がなかったですからね(シリーズの性質もありますが)。これからの作品でも、軽いやりとりとして、自然な流れの中で使うことはあるでしょうが、やはり露骨なネタ(ボケとつっこみ)はやらないでしょうね。もちろん、まじめな流れでのギャグは落差が大きいですから、つかいどころがよければウケるのでしょうが、それを一度やれば何かここまで築いてきた雰囲気というのが壊れる気がします。作品のに漂う空気感は今のところこれでいいと思っていますし、べつにウケをねらっているのではないので、きっとギャグは使わないでしょう。視聴者を意識して作ると大変だと思うので。

 すこし話が脱線したので、リメイク版秋の訪れの話に戻りますと、今回は16:9モードで作成してみました。画面が広くなる分、たくさん描けますし、セリフ(吹き出し)などは挿入しやすくなったと感じます。もちろん、描く量が増えるので、作業量は増加して投稿までに必要な時間は増えますし、縦が相対的に短くなったので、人物が背景に埋もれやすくなったように感じます。全身を描写すると動画の幅が広がったので、小さく感じますね。絵のバランスのとりかたをまた構築し直す必要があるかもしれません。もっとも普段からそんなことはあまり考えていませんが・・・。
 また、いくつかセリフを改変しました。さらに前作では吹き出し外のセリフというのがあったのですが、それを廃止しました。あってもいいかもしれませんが、背景をきちんと描くようになると、字が埋もれて読みにくいので、やめました。
 と、いくつか細かい変更点がありますが、基本的には前作をそのまま描き直しただけです。ですから、芸がないといわれたらそうですとしか答えられませんね。


 ほかのリメイク候補としては「朱と蒼」でしょう。また、「色の名前」シリーズもボリュームアップさせて新シリーズにするかもしれません。ですが、さしあたって、次からはとともシリーズを再開させようと思っています。

2012/10/10

2周年


 はやいもので、李花尺がニコニコ動画への初投稿から2年がすぎました。昨年の10月からの動画投稿数は15、時間にして2時間と20分ぐらい。最初の一年は投稿数が40、時間にしておよそ4時間半です。これに比べるとペースは落ちていますね。もっとも、背景の書き込みや描写の丁寧さなどは向上していますから、描く速度と質の交換があっただけかもしれません。

 振り返ってみると、この一年はおよそThe last incident シリーズから始まり、「ととも」を三つはさんで、「巡るは季節」を描いたことになります。また、プレミアム会員にもなりました。「巡るは季節」の第一話は東方カテゴリーランキングの1位にもなりましたね。「巡るは季節」は1時間ちょっとの長編ですから、この一年の半分は、このシリーズを作っていたことになります。気合いの入ったシリーズでしたし、無事完成してなによりです。

 さて、これまでの動画すべてで、誰が一番登場しているのでしょうか?ふと気になったので、数えてみると、こんな感じでした。1本の動画に一度でもセリフがあれば1回とカウントしています(セリフがないとカウントされません)。

01位:霊夢  21(5)回
02位:文   19(7)回
03位:魔理沙 17回
04位:紫   14回
05位:幽香 12回
06位:チルノ&レティ&永琳 10回
09位:萃香  9回
10位:椛&大妖精 8回

 といった感じです。あとはアリス・ニトリ・パチェが7回でレミリアが6回と続きます。霊夢と文の括弧つきの中の数字はそれぞれ、霊夢に関しては「巡るは季節」で出てきた霊夢の生まれ変わりの、文に関しては「ゾンビ禍」のシルエット状態での登場回数を示しています。やはり長編に出てくる登場人物達は回数が多いですね。文は4つの長編と1つの中編のうち、「巡るは季節」をのぞいてすべて絡んでますし、夢も「霧の大河」以外では出番がありますから、なるほど納得です。しかし、霊夢は「ととも」シリーズにはあまり出てこないので、それほど描いている感覚は無かったりします。
 幽香も数は多いですが、2年目はそれほど描いた記憶がありません。と、いうより、2年目は長編・中編を基本に描いたため描いた人物に偏りがあります。
 アリス・ニトリに関してはもっと登場回数が多いような気がするのですが、そうでもなかったですね。逆に、チルノ・レティ・永琳はそんなに描いたかなぁ・・・という感じです。椛と大妖精は、文とチルノの相方として描かれることが多いので、納得ですね。

 未だに描いたことがない(=しゃべっていない)キャラクターは旧作をのぞいて
プリズムリバー三姉妹・慧音・メディ・四季映姫・衣玖・天子・キスメ・お燐・お空・響子・芳香・豊&依姫・三月精の妖精達・華扇・阿求・蓮子・ハーン
でしょうか。総勢で22名もいます。もちろん、これまでに登場した人物も少ししか話していないキャラクターも多いですから、おいおい、なにか思いつけば、それぞれに対して物語を描いていきたいですね。

 1年目の終わりには「月1のペースで投稿したい」と言った記憶があります。今年の9月は投稿できませんでしたが、おおむねこの目標は達成できたと思います。そこで次の一年は、このペースを維持しつつ、いろんなキャラクターを登場させたいですね。

これからも李花尺をよろしくお願いします。

2012/09/30



皆様、お久しぶりです。

ここのところ忙しくておりまして、李花尺としての活動時間がとれていません。が、季節は流れまして、あれほど暑かった今年の夏も終わりを告げようとしています。私の住んでいるところではまだ、日中は30度近くまであがることがあり、残暑が厳しい状況が続いています。それでも朝・夕は涼しく、夏と同じように窓を開けて寝ていると風邪を引きそうです。なにより、風が気持ちいいものに変わりました。また、よく見ると彼岸花が河の土手に咲き始めています。ススキの穂も開き始めました。夏の虫たちも秋の夜長に鳴くものにたすきを渡したのか、セミの声も聞かなくなりました。稲刈りはほぼ終わり、そばの白い花が最盛期を迎えております。

「暑さも寒さも彼岸まで」という言葉があります。彼岸を過ぎても暑いのでやれやれと思ってはいますが、こうして気づいた事を書き留めていくと、やはり夏は過ぎて秋が訪れているようです。秋=紅葉とするならば、それにはまだ早いですが、秋らしさというのは徐々に深まっているように感じます。

さて、次の話ですが、いまいちまとまっておりません。ちょいと秋の風景を描くことを考えたのですが、やはり私は「話」があって「絵」がくる性質なので、まず、絵から描くというのは難しいのか、ちょいと挫折しました。ですので、1年以上前から暖めている百人一首のネタを始めようかな・・・と思っています。後は東方とはほとんど関係のない物語もありかな・・・と考えています。

季節の変わり目ですので、皆様、体調には十分に気を遣ってお過ごしください。

李花尺

2012/09/08

【後書き】ととも 文の散歩

久々の投稿となりました。
ご視聴&拙ブログにお越し頂きありがとうございます。

さて、今回は「ととも」シリーズという事ですが、「文の取材」番外編・冬でもあります。どちらのシリーズに組み込むか悩んだのですが、番外編・秋がシリーズで起きた事をしっかりと踏襲しているのに対し、こちらは単に季節が冬になっただけで、シリーズとの明瞭なつながりがなかったので、「ととも」シリーズに組み込む事にしました。

ヤマメさんは台詞入りで登場したのは今回が初めてだと思います。地底に入ったらまずヤマメさんに会うことになるだろうな、と思ったのは理由があります。彼女は地底と地上をつなぐ主要な通路に細い蜘蛛の糸を張っており、誰かが通るのを監視しているだろうと思っているからです。ちなみに射命丸もそのトラップに自分が引っかかったことに気付いていたので、彼女が急におりてきてもそれほど驚いていません。が、こいしは無意識を操っているので、彼女が文に声をかけた時、射命丸は完全にふいを突かれた形になっていますので、かなり驚いています。

古明地こいしは一度描いていますが、今回は前回「ととも」で描いたこいしと関連づけた描写はしていません。今回はあくまで、無意識を操る妖怪として、つかみ所の無い様を描いたつもりです。こいしは最後、射命丸の視界から消えてしまい、せっかくなので、地上を散策することにしたようです。

最後、青空を描きました。白く雪のつもった山を手前においた青空は濃いように感じます。私は冬の青空はどちらかといえば、淡い、抜けるような青のイメージが強いのですが、この場合は別です。冬の山は天気が変わりやすいですから、なかなか綺麗な青空と白い山の組み合わせは拝むことができませんが、いいものですね。ちょっと、そんな事に共感して頂けたらと思います。


10月になれば、二周年です(はやいものです)。
が、次はなにも考えていません。

2012/09/06

お絵かき

お空のおみくじという企画にちょいと誘われたので、描いてみた。小一時間で描いたはいいが、現在、夜中の1時。


2012/07/28

巡るは季節 最終話 【後書き】

さて、なんとか形にすることが出来ました。実を言うと、動画の6分あたりまでは7月の初頭には完成していました。が、最後をどうするかを延々となやみまして、結局、7月のおわりまで引っ張ってしまいました。

で、最終的に至った結論ですが、「人間(=霊夢)と妖怪の時間軸は違う」です。それを象徴するのが、木(椿)を植える場面です。同じ季節がやってきても、椿は年々大きくなっていく(そして自分自身は衰えていく)のが非常に大きな意味を持つ時間軸に人間は生きています。ですが、紫はもっと大きな時間軸、霊夢の生まれ変わりを100年、1000年という単位で待つことができる時間軸で生きています。あるいは、荒れ地に苔がはえ、土が生まれ、そして木々が生い茂るまでを感じる事が出来る時間軸です。紫がちょっと寂しそうなのは、人間というものが自分とは違う時間軸に生きている事を感じているからだと思います。

なぜ椿なのか?  これは特に理由はなくて、単に私が椿が好きだからです。庭に植えるなら好きな木を植えるでしょう?まぁ、花が落ちる描写がしやすいという理由も多少はありますが・・・

さて、霊夢はまた生まれ変わるのか?  私は生まれ変わると思います。ただ、3つのほくろは無いと思います。霊夢によって否定されましたから・・・。紫は「ほくろをもつ」という呪いがとかれたので、自身におもねる事の無い、美しいもの(それがたとえ初代巫女から続く霊夢と似た人間で無くても)を素直に愛する事が出来る様になったと思います。ですから、最後の「形を変えて、また、きっと逢える」というのは、初代〜霊夢までの3人の巫女との決別を意味するのかもしれません。ですが、霊夢の形見ともいえる家と椿からはまだ離れることができないでいるので、また、きっと巫女として逢えることを願っているのかもしれません。

で、結局、霊夢と紫はどうなったのか?  描かなかったので(描けなかった)、皆さん、考えてください。

今回は三島由紀夫作、「豊穣の海」を原作にしました。これは輪廻と夢の物語で、非常に面白く、人間というものが非常に巧みに描かれています。未読の方は是非、一読してみる事をお勧めします。そういえば数年前に妻夫木さんが主演かなにかで豊穣の海 第一部「春の雪」を映画化してましたね・・・見てないですが。



さて、全7話にわたっておつきあいくださいましてありがとうございました。
また、本シリーズではニコニコモンズの素敵な音源を積極的に利用させてもらいました。音源をコモンズに投稿してくださった方々に、この場を借りて御礼申し上げたいと思います。ありがとうございました。

また、次回、お会いしましょう。

2012/07/01

【後書き】巡るは季節 第6話



さて、6話になり、舞台は現代に移りました。わかりにくいことに、拙作、とともシリーズ「霊夢、夢の後」の後が舞台になっています。霊夢の置かれている状況は「夢の後」とthe last incident シリーズをご覧になって頂けるとうれしいです。脚本を作る段階で、余計な前知識が必要なこのストーリーは許されるのか?と思ったりもしたのですが、まぁ、自分の好きなようにすればいいやと開き直っております。ごめんなさい。・・・ということで、霊夢は霊夢ですが、博麗の巫女ではありません。ややこしや。


霊夢は霊力をうしなって、静かに、人里離れた山の中で暮らしています。たまに、魔理沙や、紫(生活に必要なものを運んでくる)が遊びに来ます。そして、霊力を失った今、妖怪の気配、そんざいそのものに対して抵抗するすべを基本的に持ちません、普通の人間ですからね。ですので、「疲れた」と発言しています。ちなみにそのシーンで霊夢が持っていたのは山菜のあく抜きをしている鍋です。

なぜ、霊夢はほくろを増やしたのか?それは、ただ、ほくろという特徴に縛られているそのばかばかしさを伝えたかったのだとおもいます。確かに霊夢は初代巫女・明治巫女に似ています。が、違う人間であることは間違いのないことです。親戚のおばあちゃんに「だれそれと似てるね」と言われてなんとなくむっとした経験を、皆様お持ちだと思いますが、それに近いのだと思います。

途中、初代巫女と明治巫女の顔が2つずつ出てきますが、あれは喜怒哀楽をそれぞれ表していまして(左上から時計回りに、哀喜怒楽)、ようするところ、自分の感情に素直であった、自由だったことを表したかったのです。ちなみに、右上の「喜」の表情はわりかし巧く描けたと思っています。

ちなみに3人の巫女に共通する紫に対する言葉に「可愛い」があります。初代巫女は紫の印象を語る言葉として、明治巫女はちょっとしたからかいの言葉として、霊夢は発見の言葉としてそれぞれ「可愛い」を使っています。あとは「妖怪ってそんなものよ」という発言は拙作「文の取材」の最終話で霊夢が口にしています。人はそれぞれ違うのですが、繰り返しが知らず知らず発生している。そして霊夢の中でも時は一方向にしか流れていないのですが、ふと、繰り返しが起こっています。


さて、霊夢は紫をどうおもっているのか?それはまた、次回ということで。そして、次回で「巡るは季節」は最終回です。もうしばらくお待ちくださいませ。

2012/06/26

黒谷ヤマメ

なんというか、ふと、思い立って、描き始めたら1時半(夜の)になっていたという、くだらない話。


2012/06/17

杉の木

近畿地方も梅雨入りを済ませたそうで、雨の日がこれから続くようですが、ご機嫌いかがでしょうか。蒸し暑く、雨で洗濯物も乾かないようでは恨めしい限りですが、最近、ちょっとした発見があったので、すこし。

杉といえば、春には花粉を飛ばし、多くの人の目鼻を苦しめる元凶として逆恨みされている存在ですね(山一面に植えたのは人間で、杉からすれば、材木となり人間の役に立つはずがそれもかなわず、恨まれるとは心外も甚だしいことかもしれません)。その季節の杉林はなんともいえぬ錆色で、お世辞にも綺麗だとは言えない風貌です。ですから、杉に罪は無いのですが、あまり好きではありませんでした。ですけど、先日、煙るような雨の日に、杉の木の高麗納戸のその穂先に新しい鶸色の新芽が伸びて、濃淡の対比が美しいことに気付きました。

雨雲を通じて弱い光が当り、古い葉の影はいよいよ濃く、新たな芽はより鮮やかに。ちょうど、広葉樹に風が当たり、淡い色の裏地が見えるような、そんな美しい色の対比をもつ季節が杉にもあるのだなぁと、思い知った訳です。

雨の日にもちょっとした発見があると、暫くは楽しく過ごせそうです。

2012/06/09

【後書き】巡るは季節 5話

第5話まで進みました。投稿が遅れて申し訳なかったです。それなりに忙しいので・・・

以下の巫女の定義は前の投稿(第四話後書き)を参照してください。

明治巫女は博麗大結界(常識と非常識を分つ結界)を構築する際に、「人柱」になったという解釈です。第4話で紫が述べていた様に、いずれは人間の持つ常識が幻想郷の内側から妖怪を否定する様になるだろう、ということを明治巫女も理解していました。結界の仕組みを渡され、夜な夜な考えた結果、幻想郷の人間の代表として「常識」を外に運ぶ役割を彼女自身が担った、と考えています。初代巫女と明治巫女が「同じ」であるならば、初代巫女は紫の作った結界によって招き入れられ、そして、紫の作った結界を再び「またいだ」ことになります。

紫は境界をいじれる存在ですから、彼女自身は結界をまたぐことは可能でしょう。ですから、たとえ結界の人柱となって、「外に出てしまった」明治巫女を再び呼び戻す事もできるかもしれません。が、常識の側にわたるということは、常識以外を幻想郷に「置いてきた」訳で、そこには妖怪などを認識する第六感などを含んでいると考えます。ですから、常識の世界に行ってしまった「明治巫女」はもはや紫を認識する事すら叶わないでしょう。紫としてもできれば彼女を取り戻したいでしょうが、結界が彼女の犠牲によって成り立ってしまった事、自分が認識されない事の辛さを考えれば、とてもじゃないですが、幻想郷の外に行ってしまった彼女に「会いにいく」ことさえ憚られるのではないでしょうか。そして、耐え忍のべば、また、会えることも支えになったのかもしれません。

ちなみに、紫が机に向かい、後ろから萃香が声をかけるシーンで、何が巻物に書かれているかというと、堤中納言物語の虫「めづる姫君」の一節です。高校古典の教科書を開いたらそれが目についたので、それを模写しました。深い意味は特にないです。

明治巫女「だった」女は明治という激動の時代をそれなりに幸せに暮らしたのではないでしょうか。ただ、どうしても思い出せない過去を持ちながら。そして、その生を全うし終えて、なぜか、幻想郷の川原に戻ってきた。死人に口なし、彼女はしゃべる事はおろか、自我があるかどうかは分かりません。ただ、彼女の魂は忘れていた記憶を取り戻しに、やってきたのかもしれません。


これにて第二章、紫を慕うほくろを持つ女の話は終わりです。

そして、次回からは現代に移ります。巡るは季節、最終章、もう暫くおつきあいくださいませ。

2012/05/20

チェルシー、UEFA CL制覇おめでとう!

久しぶりに深夜に起きて、サッカーを見ました。

いやぁ、すばらしいですね。全員が自陣にもどって守備をやっているときのラインの美しさ、最後の一手を封じるスライディング、展開の速さ、時折みせるセンターバックのオーバーラップやドログバの圧倒的な強さからの鋭い攻撃、なにより先制されても追いつき、勝つことのできる精神力。

準決勝でのバルセロナ、決勝のバイエルンという欧州で一二を争うような攻撃力をもつ選手をそろえたチームと対戦して、しっかりと守備をして、競り勝つことができるというのは尋常ではない強さだと思います。CLの制覇がなによりもその証拠ですけれど。

個人的にチェルシーのスタイルが好きなので、チェルシーを応援していたので、うれしかったです。深夜ですから、騒ぐ事はできませんから、1人、ハラハラしながら、見てました。


そんなこんなで(?)、土日も忙しくて次作の作業が滞っております。「巡るは季節」第5話は6月になりそうです。

2012/05/16

再生数について。


「巡るは季節」の第一話は4万再生まで延びました。これについては驚きがつよく、うれしさはあまり無かった様に記憶しています。第2話は1万再生、それ以降、およそ5千から1万再生の間をうろうろしています。私としては最終的にどの話も1万再生前後までいけばなぁ・・・と思っています。

で、何が言いたいのかと言いますと、私は5千から1万再生の手書き作者なんだろうな、ということです。頂上が見えた感じですね。これに悲観している訳ではなくて、「ま、そんなものか」という感じです。

これ以上の再生数を手っ取り早く(?)稼ぐためには「動き」が必要でしょう。具体的は「動画」としての動き、またはストーリーの抑揚ですね。かれこれ東方手書き界隈に入り浸る様になって2年あまりが経ちますが、新たに再生数を大きく稼ぐのは、手書きでありながら「動き」のある作品か、ストーリーの抑揚が上手い、展開がよめず、先が気になるような「熱い」作品のどちらかに分類する事が可能でしょう。あ、エロでもいいですけどね。ということで、動画の中に動きを取り入れれば、これからさらに多くの再生を稼ぐことができるでしょう。

ですが、そんな動画を制作する気が基本的におきないので、しません。ですから、5千から1万再生ぐらいの手書き作者なんだろうな、と思う訳です。再生数を増やす事を目標に動画を投稿している人は大変だろうなぁと、思ったりした今日この頃でした。


こんなことを書くと、やる気を失っている様にも見えますが、そんな事はなくて、「静かな雰囲気」の可能性を信じて、いろんなことを試していく所存であります。それに気付いたコメントがあれば、なおうれしいですね。例えば、第4話では「今回の巫女は親子の愛情の面が強いね」という趣旨のコメントがありました。明治巫女のサブテーマは「親子愛」なので、初代の「恋愛」とは異なる形で巫女と紫の関係が構築されています。それに気付いてもらえたので、かなりうれしいです。そんなコメント、お待ちしております。また、基本的に私は動画となって世に出たら、どのような解釈も間違っていないと考えています。私の意図とは違う解釈も大歓迎ですから、お気軽に、コメントをよろしくお願いします。

2012/05/13

【後書き】巡るは季節−4 【補足】

4話の動画の中で、紫、幽々子が初代巫女(巫女の呼称については前の投稿を参照してください)が居た時代を500年前と表現していますが、400年前の間違いです。

どういう事かと言いますと、

初代巫女(1−3話);戦国時代;1500年ごろ
明治巫女(4話);明治時代;1900年ごろ
霊夢(まだ登場してない);現代:2000年以降

となりまして、ざっくりと、現代から見て、初代は500年前、明治は100年前です。そして明治から見て初代は400年前、となります。

要する所、引き算間違えました。ごめんなさい。

2012/05/12

【後書き】巡るは季節-4

さて、4話が投稿されました。


時代は3話から下りまして、明治です。作中では明言していませんが、明治維新かなぁと印象づけるような言葉や、場面を挿入したつもりです。たとえば、作中では長野・開智学校や、大阪紡績会社の機械制紡績工場をモデルにしたシーンが出てきます。
作中で計画されている結界とは「博麗大結界」のことです。まだ、完成はしていないようですね。はてさて、どうなることでしょう。それは次回のお楽しみという事で。


3話までに登場した巫女は、博麗神社にとって最初(=初代)の巫女ではない設定なのですが(1話の村人の会話からそのことは分かります)、「幻想郷」という結界によっていわば隔離された世界になってからは初めての巫女なので、面倒ですから以降、初代巫女と呼びます。ついでに、4話から登場する巫女を「明治巫女」と名付けておきましょう。ややこしや。


紫が明治巫女の事をどう思っているのか?なかなか難しい問題です。今の所、紫は明治巫女に対して、「貴女は初代巫女のうまれかわりかもしれない」という話はしていません。話した所で、「あ、そ」で済まされる事が怖いのかもしれません。巫女の輪廻(巡り合わせ)に囚われているのは、紫であって、巫女そのものではないからです。明治巫女は初代巫女の記憶を引き継いではいません(おそらく)。紫としても、恋する人の向こうにだれかの影を重ねたくはないと思っています(保守的な観念かもしれませんが)。でも、明治巫女に対する恋のきっかけとなったのは、間違いなく初代巫女の面影(ほくろ、性格、能力)であって、その共通点の多さから、重ねたくなくとも、重なってしまうので、紫としてもつらいでしょう。その気持ちは一部、幽々子に吐露しています。・・・もしかしたら、そういう葛藤を含めて、400年ぶり(現代から見て、初代巫女が500年前の人、明治巫女が100年前の人なので)のことですから、実は、葛藤や恋心そのものを楽しんでいる自分が紫の中にいるのかもしれません。

初代巫女と明治巫女の違いですが、実は髪の毛の色が若干違います。初代は青みがかった色、明治は赤みがかった色をしています。本当は顔立ちで描き分ける事も出来たら良いのですが、そこまでの技術は今の所無いので・・・。


さて、明治まで時代が下り、紫は再び、ほくろをもつ巫女に出会いました。紫は今の所、表面上は平静を保っていますが、どうなることでしょうね。そのあたり、また次作で描けたらと思います。


以下、3話のコメントについて

02:18 >つるっぱげしかいないw
すいません。遠くのモブを描くときは面倒なので、髪の毛を省略したのです。彼らも近くで見るとはげてないです。ちなみに、3話の大工さん達は全員つるっぱげです。問題のシーンも画面右側は大工さん達なので、つるっぱげでいいのですが、左側は村人達なのではげてないです。

03:53 >司馬遼太郎ktkr など
「坂の上の雲」という言葉がたくさんの反応を呼びまして、びっくりしました。NHK効果でしょうか。司馬遼太郎の坂の上の雲は私が高校のときに読んだ本でしたが、同級生とかの知名度は低かったのですが・・・。面白いので、一読をお勧めしますが、なにせ文庫で8巻ですから、分量が多いですね。ちなみに、「坂の上の雲」という単語は次の物語が「明治」を舞台としていることを暗示させたくて使いました。

08:17 >紫の冬眠って、これから始まったんじゃね?雪を見たくないから。
初代の幕引きを考えるにあたって、冬を選んだのは、本当の所、なんとなくなので、そこまで考えて、冬を選んだ訳ではありません。ですが、紫が部屋に閉じこもっているシーンを描いている時、同じようなことを考えていたりしました。ちなみに、私は紫の「冬眠」というのは単に冬は寝る時間が長い、程度に考えているので、本格的な冬眠は想定していません。


では、さっそく第5話の制作に取りかかります。それではまた、次回。5月中に投稿できたら良いですね。

2012/04/14

巡るは季節-3 【後書き】

さてさて、第3話まできました。これにて「巡るは季節」は一つの区切りを迎えることになります。

 3話ではあえて、どれだけの時間が経ったのかをあやふやにしました。最初の紫との会話は第2話からの続きです。そして、紫とスイカとの会話は、「女」と紫が別れて数日後の話です。その後、老人が女を紹介しているような絵と、何かを建てている絵と「女」が驚いている絵、そして博麗神社と小さな家が写った絵が連続してなんの説明もなく続きます。これはどういうことかといいますと、「女」が里の人間に「〜この地は各地の妖怪が集まる結界が神社に仕掛けられており、それを壊すとどうなるか分からない。しばらくは妖怪がたくさんやってくることは避けられないが、私のような妖怪を退治することが出来る人間もこの地に引き寄せられるから、心配はいらない。博麗神社は結界の依り代になっているから、あそこに巫女を復活させることで安定するだろう。ここに来たのもなにかの縁だから、私が神社に住むことを許してくれないか〜」ぐらいに説明して、妖怪に困っている幻想郷の人間は「女」が非常に物腰も柔らかだし、腕も確かなので、歓迎した。そして博麗神社は簡単な社が残っているのみだったので、新しく巫女のための家を建てた。思った以上に立派だったので、驚いた。そしてそこには「女」と、それに会いに来る紫がいる・・・という感じです。「女」が幻想郷に流れてきたのは6月ぐらいで、第3話の作中で、博麗神社の社務所ができたのが7月ぐらい。そして、秋になって、冬が訪れて・・・という流れでした。いわば、1−3話はおよそ半年の間の出来事です。

 さて、今回は大胆な裸体の描写を行ったわけですが、それなりに意味があったので描きました(おいおい分かってくると思います)。もちろん、愛するためにお互いが直に接するというのは、別段不思議なことではないと思うので(それがヘテロでもホモでも)、物語の流れ上、ああいった描写があってもいいんじゃないでしょうか。ただ正直なところ、描くのは疲れました・・・。

 ちなみに、「女」は一度も紫に感謝の言葉を口にしてませんし、愛の言葉もささやいていません(紫を許してはいますが)。彼女は紫に依存してはいないのです。それを注意して描いたつもりです。どこか超然とした印象を与える存在として描きました。

 彼女はその冬、神社から里に行く途中に雪崩に巻き込まれました。冬になって、紫も雪崩を心配したでしょうが、彼女がスキマを使うのは、紫との「約束事」を果たすときだけで、人間としての生活においては彼女はスキマの利用を拒否していた、という見えない設定がありまして、このため、彼女は不運にも雪崩によって命を落とすことになります。
 紫を心配して萃香が紫の家を訪れていますが、紫はどのような状態にあったのか、私は描くことが出来ませんでした。きっと、自分を責めていたのだと思います。妖怪ですから、物理的な責め苦はそれほど意味がないでしょうが、自身も氷付けになっていたのではないでしょうか。紫は、感情を取り戻したのだと思います。そして、それはきっと大切な意味を持っているのです。その辺りも、今後、描いていくつもりです。


さて、「巡るは季節」の第一部は甘く美しい幻想郷の始まりの終焉を以て幕を閉じます。第二部をお待ち下さい。

2012/04/05

4月3日、4日と日本列島を春の嵐が通過していきました。台風を思わせる雨と風で桜が散った所もあるでしょう。こちらはまだ桜にもはやく、散ってしまった春の草木は少なかった様に思えます。コブシの花は散りやすいと思い、心配していたのですが、まだ固かったのか、ほとんど残っていました。春が遅かったのが幸いしたのでしょうね。

さて、今日は先日の嵐とは対照的な、静かな雨が降っています。霧雨でしょうか、遠くがかすんでいます。

司馬遼太郎の随想に「三月の雨は六朝の涙に似たり」という言葉が出てきたのを覚えています。確か、漢詩の一節だったかな・・・

このくだりがどのような流れだったか、記憶は定かではありません。しかし、ふと、今日の優しい雨を見て思い出しました。

長江のゆるやかで駘蕩とした、それでいて巨大な流れを引いた水路に架かる石の橋と柳、遠くにかすむ高楼、廟、朱で彩られた複雑な装飾の丸い窓。

中国を夢見る時、そういった風景が思い起こされるのですが、実際はどうなのでしょうね。日本では、多くの神社の境内で凛とした空気を感じる事ができます。中国の大きな私有(あ、私有はありえないのかな?)の庭園にもきっと、駘蕩とした世界が残っている事を期待しているのですが・・・淡い夢なのでしょうか。

雨を涙に例えるのはよくあることですが、時代の涙に例えるのもなかなか風情がありますね。今日は濡れれば冷たく、春を遠ざける雨が、強くふる訳でもなく、かといってやむことなく、降り続いています。なにか、泣いているのかもしれませんね。

2012/03/25

巡るは季節 その2 【後書き】

さてさて、第二話が投稿されました。
第一話がおかげさまでカテゴリーランキング(東方)の一位を記録しました。現在、4万再生、1.5kマイリストと、これまでになくたくさんの人に見て貰うことが出来ました。この場を借りて感謝申し上げます。できれば、これからもよろしくお願いします。

しかし、まだまだ物語は序盤なので、後書きに書くことが少ないです。とりあえずは、私なりの「幻と実体の境界」という結界についての解釈について。

今からおよそ500年前に、八雲紫によって、幻と実体の境界」という結界が博麗神社を境界として作成された。これによって、人々が忘れたもの、信じなくなったものが、結界の内側に引き寄せられるようになった。一話で、彼女(流れてきた巫女風の女)が「閉じている」と感じたのはこの結界の存在のためですね。
 で、八雲紫の予想通り、この地へ数多の妖怪を集めることに成功はしたものの、第一話で谷が荒らされたように、増加した妖怪に対して、人間は以前に比べたら弱くなっていたため、力の均衡が崩れました。この地(幻想郷)は里(=市、一つ、人が多い)・谷(複数、人が少ない)から構成されており、一話で襲われていたのは辺境の谷です。一話で里がおされている、という発言がありましたが、これは八雲紫によって、妖怪側も安易に襲わないように圧力をかけているためですが、「人が喰いてぇ!」といった具合に、単純な(たいていは弱い)妖怪がどうしても押し寄せているのを、里にいる妖怪退治の心得をもった人間(谷よりは力もあるし、多い)がなんとか防いでいるということを表しています。
 八雲紫の予想では、人間側にも、彼女がそうであるように、妖怪退治の力を持った(実体の世界では信じられない力を持った)人間が集まるはずでした。しかし、思惑がはずれていた、ということです。紫が「ためす」というのは均衡を元に戻す力があるかどうかを試すということで、そして彼女はその力を(十分すぎるほどに)もっていたのでした。妖怪退治の心得を多少は持っている里の人間からはすでに大きな信頼を得ていることは、彼らが彼女のことを心配している描写で描いたつもりです。


わかりにくいところがあれば、ブログのコメント欄でも、動画のコメントででも書いて頂ければ、説明していくつもりなので、お気軽にどうぞ。


さて、書くことがつきたので、動画1話のコメントにでも返信をば。

多かったのが、これは何時の話だ?というコメント。

これは現代からおよそ500年前(西暦1500年前後)のお話です。
いずれも、私の解釈が入ってますので、原作とは違う部分があります。ご了承下さい。
動画内で石碑が出てきますが、あれには「封 天暦元年」と書かれています。あれでなにが言いたかったかというと、そのころ(西暦943年)にはすでに幻想郷のある土地に人間が妖怪退治を行っていたということです。平安末期には今の長野の山奥に人が来て、妖怪退治を行っていた。そして第一話で里の長が話したように、妖怪退治を生業としてきたが、それが徐々に廃れて500年が経ち、戦国の世になったのがこの物語の時代です。八雲紫とか古株の妖怪達は平安やそれ以前から、その地に居る妖怪と解釈しました。

この女は何者なんだ?というコメント

少なくとも博麗神社の初代の巫女でも霊夢からみて先代の巫女でもありません。作中での「以前は巫女をたてていた」という発言があるように、博麗神社はこの物語ではすたれているものの、すでに存在し、巫女も居ました。ので、初代ではありません。また、今からおよそ500年前の「幻と実体の境界」が完成して数年後の話なので、霊夢の先代でもありません。

「あまり昔だと月代剃る風習なかったはずだが」etc...

しりませんでした。時代としては戦国なので、織田信長を筆頭に日本史の肖像画をなんとなく思い出すと、綺麗に剃っていたと記憶していたので、剃らせました。皆さん、お詳しいですね。次から急に髪の毛が生えても気味が悪いので、今回は統一します。許してください。

背景に関するコメント

お褒め頂き、ありがとうございます。ただ、いくつか指摘がありましたけど、丁寧に描いているわけではないです。木とか山とかかなりいい加減ですよ。東方手書き界隈ではあまり背景を描く作者さんがすくないのか、背景を描くことで、ずいぶんと得をさせてもらっています(?)。




物語はまだまだ序盤です。これから面白くなっていく予定ですので、もうしばらくおつきあい頂けたらと思います。

2012/03/17

巡るは季節 【後書き】

さて、新シリーズ始まりました。

本シリーズの下敷きは三島由紀夫作、豊穣の海です。といっても、壮麗で完璧かつその崩壊さえも描かれた作品のそのうえに物語を立てるなどおこがましい限りです。正確に表現するならば、下敷きなどたいそうな表現ではなくて、その城をまねて、小さなミニチュアを作るようなものでしょうか。それも、城の本質的な美しさを写す事かなわず、その構造を小さく真似ただけにすぎません。・・・ま、着想を得た、といえば済む話なのかもしれませんけどね。

前置きはこれくらいにして・・・
本作では八雲紫と幻想郷の巫女との関わりを描いていこうと思います。時にして500年にわたる長い物語です。

さて、第一話は幻想郷のなりたちと大きく関わる、「幻と実体を分つ結界」を八雲紫が考案し、そして実行して暫く経ったところです。次の話で幻想郷がどういう状況におかれているのか、おいおい分かってくると思います。今回は導入ということですのでかなりマイルド(?)です。

今回、博麗神社は寂れている状態であるという設定を持ち込みました。ほぼ無人の神社ですね。なぜほぼ無人かというと、お祭りごとがあれば、適当に巫女さんをだれかにやらせる、という設定だからです。その台詞はカットしてしまいましたので、作中では本当に無人のような印象を受けますが・・・。作中では「巫女を立てる」というのは神社に常駐するという意味なので嘘はついてません。で、どうして神社が寂れているかと言えば、妖怪退治の神社だからです。妖怪の存在を忘れつつあるので、当然、博麗神社の存在も薄くなり、人々の扱いも軽くなるというものですね。そして、神社はかなりシンプルな作りとして表現しました。私は寺社仏閣の建築の歴史は知りませんが、山奥の小さな神社が戦国の世にそれほど立派な社殿を建てるほどの技術はないだろう・・・と想像したので、簡素な作りです。

登場した巫女風の女は、流れ者です。彼女がいったいどうなるのか、それは次回。

2012/03/11

東京は違うなぁ

どうも、私用で東京に出てまいりました、李花尺です。

東京はずいぶんと春めいていましたので、驚きました。私の住んでる田舎はまだまだなのですが・・・。本日は福祉チャリティーマラソンというのが皇居の周りで行われていたようで、皇居の周りはランナーが多くみられました。そしてお堀の柳の先端にはかわいらしい新芽が出ていました。歩道にはタンポポも咲いてるのも見かけました。

本日、3月11日は東日本大震災から 一年の節目に当たります。地震の起きた時刻にあわせて、黙祷をしました。私が顔を上げてもまだ黙祷をされている方もいました。それでも、車は走っていますし、お堀のランナーの方は走っていました(黙祷をされた方もいらっしゃるでしょうけれど)。私は東京という街が一瞬、止まるのではないかと思っていたのですが、そうではなかった。でも、それでいいのかもしれません。止まる人、止まらない人、止まれない人・・・そういう雑多さこそが、都会というものかもしれません。・・・それにしてもいろんな人がいます。田舎では考えられない多様さですね。見ているだけで楽しいです。都会の楽しみはこれに尽きるかもしれません。

そんなことを考えながら、はじめて秋葉原というところにいってみたのですが、歩行者天国になっている部分は規制があってメイドさん、いないんですね。一本なかにはいってみたら、たくさんいました(一度も声をかけてもらえませんでしたけどね)。Mac製品をとりあつかっているお店を探したのですが、思った以上にありませんでした。秋葉原はほんとにサブカルチャーの香りが強いところになったのですね(もちろん、私が探すのが下手すぎる可能性は否定できませんし、もとから少なかったのかもしれませんが・・・)。


つらつら思うに、普段得ることのできない非日常を十二分に体験できたと思います(ところで東京って本当に坂が多いですね。知ってはいましたけど、今日、実感することができました。・・・足が痛いです)。しかし、この街に住むのはちょっとやだな、とも思いました。どうしてかと言いますと、やはり人間どうしても環境に「なれて」しまいますから、この雑多な人間模様を興味深く見て、なにかを発見するためには、外にいたほうがいいと思うからです。都会に行けば行くほど、いろんな人がいますけど、そこで暮らせば、興味深い人はより他人になり、そして他人であるからこそ無視し、興味を失っていくかもしれません。

そんなことを考えました。でもやっぱり本当に刺激的で、面白い街ですね。

2012/03/03

春めいてきましたね

3月になり、寒さも和らいで、ちょっと外に出ようという気も起きるというものです。

と、いうことで、ちょっと散策してきました。
行ってきたのは琵琶湖です。

 遠くの山はまだ雪をかぶっています。先日雨だったので、もうすこし透き通った青空を期待したのですが、残念ながらぼんやりと霞んでいました。対岸の山々は淡い錆浅黄を基調にして頂には白い雪を残し、そして空と混じって全体としてはぼんやりとした色遣いなのですが、琵琶湖は紺の水をたたえてはっきりと主張していました。

 で、ぶらぶらと湖畔を歩いていると、琵琶湖に流れ込む小川のほとりの小枝にふわふわと白いものが。なにかと思えばネコヤナギでした。ネコヤナギもよくみれば白い毛の付け根は臙脂(エンジってこんな漢字だったんですね知らなかった)というか、紅樺と呼ぶべきか(もっと紫が混じっているようにも思えますが)、春の新芽にふさわしい色をしていました。

 湖畔は松林がおおくてあんまり面白くなかったので、そのうち見えてきた内湖の散策路に路線変更しました。・・・が、まだ早かったらしく、水面に近い部分は白茶色の枯れた芦(芳?ススキも混じってましたね)ばかり。朽ちかけた小道の上にはザリガニの死骸があってあやうく踏みそうになりました。東屋・・・というか中休みのためのロータリーのような場所に近づくと、なにやら大きな鳴き声が。ザリガニを踏みそうになって以降、下を向いて歩いていたのでちょっと驚いたのですが、顔を上げるとガチョウ(?)が数羽、陣取っていました。近づいても逃げないところを見ると、この内湖で餌付けでもされているのでしょうかね。とくにふれあう相手でもないので、そのまま横をお邪魔させて貰いました。で、またしばらく行くとガマの穂が残っているのを見つけました。穂はからからに乾いて、綿がすこし出ています。なんとなく羽毛らしいですね。因幡の白ウサギは毛皮をはがされた後、ガマの穂で癒す話があります。ガマといえば白ウサギだなと思いながら、ふと、これなら毛皮のかわりになりそうだと考えたり(本来の因幡の白ウサギの話とはちがいますけどね)。

 内湖も一周するのにそれほど時間がかかりませんでした。内湖を後にしてしばらく湖畔を歩きましたけど、それほど変わった様子はなし。あ、庭に植わっている梅が咲いてましたね。ちょっとうれしかったですけど、人の家なのでしげしげと眺めるわけにも行かず、退散(梅が見たいなら、長浜に行けば盆梅展をやっているそうですが・・・)。

 琵琶湖の周りにはちょっと春本番を感じるには早かったようです。もちろん、土手からは緑や紅色の新しい芽が顔を出していますし、風は冷たかったですけど、お日様のおかげでそれほど寒くはなかったです。もうあと少しですね。本当は写真の一つでもあればよかったのですが、私はあろうことかカメラを持たないので(写真を題材にした話を投稿しているにもかかわらず!)、文章だけでちょっとした散歩の報告を致しました。皆さんも春を感じてますでしょうか。

追伸;次作は長編で、第一話は3月の中旬を目指しています。今しばらくお待ち頂けたら幸いです。

2012/02/23

【後書き】アリスと上海人形

さて、今回は上海人形の出自についてちょっと考えてみました。

アリスは自律人形の作成に興味があり、アリス自身はまだ完全な自律人形を作ることができないけれど、上海だけは特別な存在である、というような設定を前から私は採用していたのですが、では上海とはいったい何者だろうか?と考えたときに、だれかから貰ったんじゃないかと思った訳です。そしてそれは母である神綺様であろうと考えました。
 アリスの出自そのものも詳細に描いていけば面白いと思うのですが、今回は割愛。神綺のそばにいるためにうける特別扱いに対する不満と、特別扱いされることから自然とプライドが高くなり、やっぱり自分から友達を見つけるのではなく、自分で作ろうとする傲慢さ(これは神である神綺のそばにいる影響もあるでしょう)、これらのことは本作でもふれたのですが、ちょっと消化不良かな・・・。
 
 人形と魂の話が出てきますが、魂って結局、魂を持った者がそれを分け与えることで魂をもたない「なにか」に移るんじゃないかなぁと思うのです。それは神綺様の言葉で言い表せば「愛」ということなのでしょう。神様である神綺は無限に大きな魂を持つために世界を作る事が出来たのだと思います。ということで神綺様はいたく母性が強い存在として描きました。




ちょっと今回はいろいろ広げられそうで広げにくいアイディアを詰め込んだ感が強いですが、楽しんで頂けたら幸いです。

2012/02/22

結局、なんでこんなこと(東方二次創作)とかやっているのか?という話。

ニコニコ動画に動画を投稿する人間の心理というのは千差万別だと思います。面白いネタを考えついたから、有名になりたいから、こんな動画見たいけど誰も作らないから・・・で、私自身はどうして東方二次創作なんてやっているのだろうか?と今一度考えてみたのですが、こんな結論に達しました。

「思っていることを共有したい」

もちろん「有名な手書き作者になりたい」とかけらも思っていないわけではなくて、作るからには多少は有名になりたいという欲は今でもあります。ですけど、それだけが原動力になっているわけでもないと思います。

 美味しそうなリンゴと満面の笑みを描いて、「美味しそうなリンゴだね」と私が描いた世界に共感してくれるとうれしいのです。「あぁ、リンゴが好きな人が自分以外にも居るんだ」このことが知りたくて私は動画を作っているのだと思います。
 私はたいてい動画を作るときは伝えたいテーマを設定したり、私なりの幻想郷・キャラクターの解釈を加えたりしています。そして、「なるほどなぁ」とか「わかるわ」とかコメントしてもらえるのが一番うれしいですから、たぶん間違いないと思います。
 同じ理屈で「漂う雰囲気に定評のある〜」というタグや、雰囲気がなんだか分からないけど好きだというコメントも私なりの世界が共感してもらえたからだと勝手に解釈しているわけです。多分、こういったコメントやタグがなかったら早々にやめていたかもしれません。雰囲気が好きだとコメントしてくださる=私の感覚や思ったことを共有してくださる人に支えられているんだなぁとつくづく思いました。


 ということで、これからも皆さんに共感してもらえるような、共有しがいのあるような物語や発見を提供できたらなぁ・・・と思います。

2012/02/14

【後書き】神子達の引っ越し 【補足】

後書きに書き忘れた、というか、コメントに対する回答をば。

宮古芳香がいない・・・という話なんですが、決してその存在を忘れていたわけではありません。ではどうして登場させなかったかというと、芳香は青蛾娘々の「私物」であるという解釈をしたからです。そして青蛾娘々は神子、布都、屠自古の3人のいわば師匠格にあたり、自由な性格をしていると考えたので、すこし3人とは距離をとっていると考えます。ですから、芳香を主に3人の生活スペースである神霊廟(と付随する施設)に住まわせることはしないだろうと考えました。原作でも廟ではなくて、墓場にいたわけですし。芳香は青蛾娘々が必要に応じて呼び出す存在というように解釈しました。

というような理由で、芳香がいないのは仕様です!

2012/02/13

【後書き】 神子達の引っ越し

神子達の引っ越し、如何だったでしょうか。

 本作を作るきっかけというのは、1000年の長きにわたって寝ていた(封印されていた)彼女らの浦島太郎状態を描く、というのが主題でした。後は神子達の生活を描いた作品が少ないから、自家発電しましょうというのが少なからずあります。

 彼女らの生活を考えるに、道教を信奉しているわけですから、大陸風な建築物が似合うかなぁと思い、そのあたりを意識しました。窓枠、東屋とかですね。で、廟というのは神聖な建築物ですから、そこに住むというのはなにやらおかしいと思うので、作中で彼女らが活動している建物(紫が腰掛けた建物)は廟ではありません。それに付随する施設ですね(=生活空間)。廟は、こじんまりとしたものが森の中にある設定です。彼女らも廟に腰掛けられたらもっと怒ると思いますよ。

 で、浦島太郎状態が如実に表れるのは何かなぁと考えたとき、やはり明かりというのは重要な要素だろうと思いました。生の火しか知らない者からすれば、電気による照明というのは謎でしょうね。雷を閉じこめていると説明すればよいのでしょうか?・・・ともかく、電気による照明を提供されることは非常に彼女らにとって衝撃的な事だろうなと思いました。


 彼女らの性格ですが、なかなか迷いました。「美しくあって欲しい」という私の願望がいずれの作品にも強くでてくるため、どうしても似通った性格になります。で、描いていて、神子らしさ、布都らしさ、・・・を上っ面(口調など)だけで区分けするのもなんだか罰当たりな気がして(駒のように扱いたくないので)どうも大変でした。これは彼女らの生い立ちや歴史を十分把握しておらず、そこから導かれる必然性がないからだと思っています。その点、これまでの作品はその辺り自分なりに彼女らの性格に納得がいっていたのですが・・・

 神霊廟の面々はこれから幻想郷とはどういう所なのか、ゆっくりと学んでいくことになると思います。その辺り、シリーズで追っていっても面白いかもしれませんね。


小説読んだり、アニメみたりでずいぶんと制作が遅れましたが、楽しんで頂けたら幸いです。

2012/02/10

ごめんなさい

・・・うん。

パトレイバーも見終わったことですし、この土日は動画を作ります。多分、日曜には投稿できる・・・かな。もうしばらくお待ち下さい。

パトレイバーを見たよ。

劇場版パトレイバー the movie 1と2を見ました。

 どうして押井守の80年代の映画を見たかと申しますと・・・「後てゐ隊長」と申せば、分かる方には分かると思います。
(ニコニコ動画で活躍中のNiceTeaさんの動画の中で東方Projectの登場人物である「てゐ」がパトレイバーに出てくる後藤隊長そっくり、というか後藤隊長のパロディであり、その後藤隊長がきになった訳ですね)

 実は押井守とは大学一年の時に出会っていました。それは大学の講義で人間学だったかなんだったか、一般教養の一コマで、「眼鏡をかけた人間は広義のサイボーグである」みたいな話の流れのなかで攻殻機動隊 ghost in the shellを見ました。へぇ・・・と思いながら見たのを覚えています。で、押井守、パトレイバーには前述のように東方二次創作という思わぬ場所でまた出会ったわけです。

 感想ですが、やたらと鳥の描写が多くて気になりました。鳥と映画といえば、ヒッチコックが頭をよぎるのですが(見たこと無いですけど)、いまいち映画との関連性が見つけられなくて気持ちが悪いのが実感ですね。執拗に繰り返されていただけに、気になって仕方がない。後、聖書の引用って押井守好きなんですかね、攻殻でも出てきたような・・・気がします。

 1ですが、零式、かっこいいですね!まるで小学生の感想ですが。他のレイバーを貫く動作が良いです。人差し指と中指をたてて、相手を貫いた後、指全体が開けるのがグロテスクなのですが、妙なリアリティがあって良いです。太田のレイバーが壊したレイバーの腕を振り回す様子なんかはかなりコミカルなのですが、それとの対比が面白いです。零式がかなりロボットらしい動作なのは、HOSを切ってマニュアルで動作していたからなのか、すでにHOSに乗っ取られてOSを再構築中で不十分だからなのか・・・ま、理由はどちらか分かりませんが、かなり印象的な場面でした。
 あとは帆場という男の経歴を追う場面で、ずいぶんとバラックというか裏町の描写がありました。さすがに今では残っていないのでしょうが、80年代にはまだ作中で描かれた様な水場に接した掘っ立て小屋の群れというのがあったのでしょう。再開発に伴う破壊、そしておびただしいゴミ。帆場にとって東京(都市)の発展は人類の狂宴だったのだろうし、またそれに対する帆場の鉄槌もまた狂気だと思います。「たちの悪い夢」、というセリフが心に響きますね。作中に出てこない人物が主人公達を引っかき回すというのもなかなか面白い物です。しかも、どうころんでも帆場の勝ちですし。あ、そういえば、鳥は無人の第二制御室に巣くっていましたけど、結局、鳥がなんどもでてくるのは人間の狂宴の後には自然がそれを飲み込むということなのかなぁ・・・
 後藤隊長ですが、やっぱり面白い人物ですね。人の使い方とか。ひょうひょうとした感じとか。でも「2」のほうが印象が強いですね。ま、作品の性格上、当たり前かもしれませんが・・・

 2ですが、うん・・・ちょっとは1回では分からないところあり。場面が飛ぶ間にどうもいろんなことが起こっているようなのですが、補完しようとするところに次々情報が重なってきますから、ちょいと私の脳みそでは一度流しただけでは了解できないところがあります。ま、大筋は分かりますが、こまかい部分がどうしても。例えば、最後の埋め立て地のヘリの残骸ってなに?松井さんの持って帰ったディスクで飛行船によるジャミングを解消できたのか?それとも柘植?
 後藤隊長がかっこいいわけなのですが、最後の柘植の戦争が偽り、非現実なんだ、というくだり。柘植の起こした戦争は確かにほとんど血が流れていないということでリアリティに欠けるのかもしれません。が、物的な破壊が行われた以上、やはりそれはリアルな戦争だったのだと思うのです。荒川さんの言葉を借りるなら、ふっとんだベイブリッジは紛れもない真実なわけです。(←ん、ちょっとセリフ違うかも)もちろん、東京に住む人々は結局の所、目を覚まさないと思いますから、後藤隊長のいうように、リアルな戦争ではなかったのかもしれません。作中の戦争はある者(主に当事者、柘植、特車二課)にとってリアルだったのでしょうし、上層部や市民にとってはリアルではなかったのでしょう。しかし、これというのは現実社会に置いて第二次世界大戦以降、先進国にとって常に当てはまっていることであると思います。
 ちなみに、後藤隊長がしのぶさんに呼ばれて「はいぃ?」と素っ頓狂な声で返事をしているシーンが好きです。シリアス一辺倒でないところが後藤さんの魅力なのでしょうね。
 あと、東京を襲った攻撃ヘリのコールサイン(?)が「gong」だったのが、印象深いですね。東南アジア某国でのコールサインと同じだった。おそらく士気を高めるためにそうしたのでしょうけど、あんまり縁起がよくないような・・・

 ながながとレビューを書きました。ここまで読んでくださった方、ありがとうございます。おもしろい作品だと思うので、時間があれば、手にとってみてはいかがでしょうか。

2012/01/28

豊饒の海

豊饒の海、本多の一生に接したのは先日25歳になったばかりの大学院生なわけだけれども、「暁の寺」、「天人五衰」はつらかった。

ちなみに「春の雪」は2011年の半ば、「奔馬」は年の瀬に読んだ。

 春の雪の美しさは尋常ではなかった、と思う。春の雪の記憶はすでに曖昧で、清顕・聡子という象徴的な言葉で私の中で保存されているためだろう。劇的でありながら、凡庸な最後が印象的だった。あのとき、この物語は私の中で「物語」から「真実」へと変化したように思う。そして観察者たる本多は私自身と重なり得た。

 奔馬は春の雪を読後、しばらく間をおいてから読んだわけであるが、ちょうど春の雪の記憶が曖昧になり、物語の上で本多の記憶が曖昧になるのと呼応して、ますます本多が私自身の振る舞いのように感じられた。勲の激情は25歳になる私には持ち得ないものなのか、本多に自分を映しすぎているためなのか、十分には伝わることがなかった。

 奔馬を読後に考えたことは、春の雪を読んだ後の熟成が奔馬を十二分に楽しむことが出来た要因の一つだということだった。転生は20年ごとに繰り返されるのであるから、次の物語もまた奔馬の記憶が熟成(単に忘却と変成であるけれど)されてからであることが望ましいと思って、およそ1ヶ月後に暁の寺を読んだ。
 が、暁の寺はつらい物だった。本多の老いと変質。年の瀬に読んだ奔馬との差はなんなのか。繰り返される仏教(輪廻)の要素、そしてインド。もはや本多は私の現在ではなくて、未来を予想する奇っ怪で醜悪な存在に思えた。最も、私は資産を持たないので、本多たり得ないけれど。そして転生はどんどんと本多から離れていくように感じられたのは、私が本多ではなくなった事と関係があると思う。本多はそれに気づいていないようだったが。

 そして、天人五衰。本多の老いが感じられて私は天人五衰を暁の寺読後、すぐに読んだ。待てなかったのは、怖かったからかもしれないし、それは事実、そうだったように感じる。
 そこには老人の姿があった。本多は転生が自分のまわりになくてはならないということをなぜ信じていたのだろう?暁の寺の最後で感じた「うわごとの欠如」から私と本多の乖離は大きくなるばかりであった。ただ、本多と本多の身の周りに起きることを見届けなければならない、義務感の様のものを感じて読んだ。が、つらい。天人五衰には必要に、執拗に、老いというものが描かれていた。本多は確実に年をとっていた。あれだけ本多に自己を重ねていた分だけ、それは恐怖だった。
 読後、あまりの衝撃に今はどうしようもなくうちひしがれているのだが、透は本多の転生ではないかと思えた。生きている人間が転生するというのも滑稽な想像かもしれないけれど。最後は救済であるように思える(思いたい)。ただ、無慈悲な救済だと思うけれど。また、どこか純粋さが欠けていった本多への罰のようにも感じる。そしてやはり本多の人生は真実ではなく、物語だったのではないか。

私の中での本多の存在の真実性は最後に崩壊の危機に立たされたが、やはり、本多は存在したと思う。夢であっても。




三島由紀夫の作品は好きであるとともに危険な香りがする。時が経てば絶対に赤面する文章を書かせる魅力とはなんなのだろうか。

ぜひ皆様も三島由紀夫作品を手に取ってみてください。
まったく、こんなことしてたので、次の作品の作成が遅れています。ごめんなさい。

2012/01/09

ととも マミゾウの眼鏡 【後書き】

さて、久々の「とともシリーズ」の新作でした。


 本作を作るきっかけはマミゾウを登場させたいな、という思いと、眼鏡を描くのが面倒くさいな、という思いです。なんと不純なのでしょう。後はtwitterで、ヒントを頂いて本作のアウトラインができました。ですから、本作でなにか伝えたいテーマがあった訳ではありません。まさに「ととも」シリーズらしいというか、なんでもない幻想郷の一出来事です。これでは新聞にもなりそうにないですね。

 マミゾウを登場させるにあたり彼女についていろいろ考えてみたのですが、化け狸ということでつかみ所の無い性格なのではないかなぁと思いました。そして人間との関わりが深いですから、人情味もあるだろうと。動画ではわりあいつかみ所のない性格を描けたのでは・・・ないでしょうか。あと、ヌエの表記がぶれぶれだったり、UFOになったりするのはヌエの実像があいまいであることを表現したかったのであって、まちがえている訳ではありません。本当はニトリに化けているシーンも考えたのですが、さすがにややこしすぎるのでやめました。後、ヌエもマミゾウと同じ様に、自由なつかみ所のない性格をしています。ニトリに名乗る所でなぜかグラビア風なのは、思いつきでニトリを惑わそうとしたためですが、まったく効き目がなかったので、次のシーンでは少々へこんでいます。マミゾウは大人でなにを考えているのかよくわからない、どちらかといえば紫タイプの性格ですが、ヌエは小さい子供がなにを考えているのかよくわからないようなタイプの性格かなぁと思います。
 結局、眼鏡を二つ買う訳ですが、ひとつはマミゾウが自分で買った以前と同じようなものですが、もうひとつはヌエが選んでくれた眼鏡です。どんな眼鏡なんでしょうか。最後にそのシーンを描く予定だったのですが、やめました。ヌエは子供っぽいところを残しているので、ややセンスがずれている様に思いますので、もしかしたら「変な」眼鏡かもしれません。ただ、正直者の星が最後に「素敵な眼鏡」と表現しているので、似合っていることは間違いないと思いますけどね。

 今作はthe last incident のような重たい雰囲気とは逆の明るく、朗らかな幻想郷の日常を描きましたが、ちょっとだけ、妖怪に関する考察が含まれています。お気づきの方も多いでしょうが、動画の1:25の当り、眼鏡が無いとおちつかない、とマミゾウが発言しています。ニトリとのやりとりでも「妖怪だからこそ必要だ」と述べています。これは妖怪は肉体的には不可思議な生き物であって、肉体的な能力というのは差こそあれ、自分で制御できるだろうという考えから来ています。目がわるい妖怪というのは、本当に目が悪いのであって、眼鏡で補正が効くような次元ではないと思うのです。なにかを犠牲にしてちがう何かを得ているのが妖怪ではないでしょうか。マミゾウの眼鏡というのは、目が悪いからではなく、「人間とのやりとりができる知性」のようなものを表していると考えました(ないからといって知能が下がるというような事は古い妖怪ですからないと思います)。眼鏡をかけて人間に化けたりして高利貸しを行ってきた過去と関わるためにないと落ち着かない、そういった事だと思います(霖之助は半分人間ですから、人間と同じ様に視力を補うために必要)。ちなみに、天狗の帽子は天狗社会に属しているという証だと思うので、前回、「文の取材 秋」で文もハタテも帽子をとっていたのは、個人として接するためだと思います。

服装は変えても、ゆずれない「なにか」、自分を規定する「もの」をもっているのが妖怪という存在なのではないかなぁ、そう思っています。

2012/01/01

あけまして、おめでとうございます

新年、あけましておめでとうございます

2011年は本当にたくさんのことがあった年でした。たくさんのことが起き、たくさんのことを学んだり、思い出したり、考えたりした年だったと思いますが、また、いろいろな事象にとらわれて、なにか、忘れていた物があったのようにも思います。

2012年は平穏な年になって欲しい、そう願っています。そしてニコニコ動画でいろいろな動画が楽しめる一年になるよう、私も東方手書き作者の一人として「李花尺」らしい作品を投稿したいと思います。


皆様にとってもよい一年になりますように。
そして、李花尺をよろしくお願いします。

あけまして、おめでとう!